服に、自分の「解釈」はあるか。
- 14 時間前
- 読了時間: 4分
最近、コスパやタイパという言葉をよく聞く。
無駄を省いて、最短でゴールに辿り着くことを良しとする考え方だ。仕事においては理解できる。効率は大切だし、私も意識している。
ただ、日々の生活や自分のスタイルにまでそれを持ち込んでいいのか、と思うことがある。
最短で完成形に辿り着くことを優先するということは、そこに至るまでの揺らぎや迷いを、すべて「無駄」として切り捨てるということだ。
本当にそれでいいのか。
先日、サカナクションの山口一郎さんのインタビュー記事を読んだ。
(全文はこちら)
「完成形にたどり着くことよりも、その手前にある揺らぎや変化にこそ価値がある」
この言葉に強く共感した。
これは音楽の話だけど、服装も仕事も、まったく同じだと思っている。
完成形を真似ても、意味がない。
見栄えのするスタイルというのは確かに存在する。雑誌に載っているコーデ、憧れの人の着こなし。結果だけ見れば、わかりやすい。
ただ、そのスタイルがどういう解釈の結果として生まれたのか、という問いには答えがない。それは本人にしか表現できないし、外から拝借することもできない。
表面だけ真似ても、どこかチグハグになる。そのスタイルは、その人の蓄積の上に成り立っているものだからだ。
スーツは、クラシック音楽に似ている。
私はファッションをドレス、つまりスーツから入った。

スーツというのはクラシック音楽に似ている。
長い歴史の中で積み上げられた古典があり、今の時代にどう解釈するかが問われる。大きく変えることはできないが、ディテールで調整する余地がある。自由度の制約がある分、型はわかりやすい。ただ、奥行きは深い。お金もかかる。
その世界の入り口だけでも経験できたことが、その後の流れを作ってくれた気がしている。
型を知った上で、型を破る。
スーツからワークやミリタリーへ移行したのは、私なりの型破りだった。
ドレスという軸を持ちながら、もう少し自由度のある世界に出た、という感覚に近い。最初は革靴への興味が多かったし、その流れでGrant Stoneにも出会えた。
ただ、カジュアルは自由度が増す分、バランスを崩しやすい。
スーツは制約の中に解釈を挟む世界だ。だからこそ奥が深い。カジュアルは入り口から自由度が高い分、最初から自分なりの解釈が必要になる。型がない分、ある意味難しいとも言える。
私の場合は「どこかに派手な色や柄を持ってくる、でも上品さは失わない」というバランス感覚が軸になっている。今思えば、それはスーツで培った「どこでメリハリをつけるか」という感覚と、根っこは同じだ。
揺らぎながら変化してきた。ただその揺らぎは、全部蓄積になっている。山口一郎さんの言葉に共感したのは、そういう理由だったのかもしれない。
だから、スーツは扱わない。
フナナカ洋装店では、スーツを扱わないと決めている。
売ることだけ考えれば、扱ってもいいかもしれない。でも、私にスーツの奥深さを教えてくれた師匠、KUBO CLASSIC STYLEの久保さんへのリスペクトから、それはしたくない。
スーツはそれを扱う良店に出会って、その奥深さを知ってほしい。その入り口に立てたなら、そこから先は久保さんのような人に任せたい。
フナナカ洋装店がやること。
スーツは制約の中に解釈を挟むから奥が深い。カジュアルは入り口から自由度が高いから、最初から解釈が必要になる。
フナナカ洋装店がやりたいのは、ワーク・ミリタリーを中心に、その解釈ごと伝えていくことだ。商品だけでなく、なぜこれを選んだか、どう着るか、何と合わせるか。その試行錯誤のための選択肢を提示できる店でありたいと思っている。
服に、自分の解釈はあるか。
山口一郎さんの言葉をもう一度引用したい。
「完成形にたどり着くことよりも、その手前にある揺らぎや変化にこそ価値がある」
これは服の話だけじゃないと思っている。仕事も、生き方も、全部そうだ。悩んで、足掻いて、それでも続けていく。その過程にこそ、その人らしさが滲み出てくる。完成形を急ぐ必要なんて、どこにもない。
だとすれば、良いお店というのはどういうお店だろう?
「完成されたスタイルが見えやすいお店」も悪くない。
でも私が目指したいのは、「解釈や選択肢の幅を広げてくれるお店」だ。答えを売るのではなく、試行錯誤のきっかけを一緒に探す。フナナカ洋装店としては、そういう場所でありたいと思っている。
誰かに理解してもらえるスタイルを目指すより、自分が生きている過程をそのまま服で表現していきたい。そういう付き合い方が、服との一番正直な関係なんじゃないかと思っている。
揺らいでいい。変化していい。
こう思うだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
フナナカ洋装店店主
船中


コメント